Hi-Stat Vox No.9 (2009年6月23日)

なぜイギリスで産業革命が起こったのか?

Robert C. Allen (Oxford University)

Photo : Sandra Poncet

産業革命がなぜ18世紀の英国で起こったのかという謎は経済歴史家の間でも未だに解決されていない。このコラムでは、大英帝国が国際貿易で繁栄したことにより、高賃金で低廉なエネルギーに特徴づけられる英国経済が作られ、それが契機となって産業革命が起こったと議論している。

産業革命が18世紀の英国でなぜ起こったのだろうか?なぜアジアやヨーロッパの他の地域ではないのだろうか?この疑問に対する答えは宗教や文化から始まり、政治や憲法にまで至る。ごく最近出版された「The British Industrial Revolution in Global Perspective(仮題:英国産業革命の世界的展望)」では、産業革命は根本的に経済的要因で説明できることを議論している。1500年以降に成立した世界経済によって生まれた新しい課題や機会に対して英国が創造的な対応を取り、その結果として産業革命が起こったと言える。これは二つの段階から成る過程であった。はじめに、16世紀後半から17世紀前半の間に全ヨーロッパに広がる市場が生まれた。英国の羊毛繊維産業がイタリアやネーデルラントの競争的な繊維業者との競争に勝ったように、この新しい秩序の中で英国は主導的な立場を確固たるものとした。さらに、アメリカとインドを含んだ大陸横断的な貿易ネットワークを築いたことで、英国の主導的な役割は17世紀後半や18世紀に入っても続いた。植民地の獲得や重商主義的な貿易振興、そして海軍力によって大陸を横断する貿易網は実現された。

世界経済での英国の成功は、要約すると地方の製造業の拡大と急速な都市化である。東イングランドは羊毛織物産業の中心で、その製品は、労働者の4分の1が港湾で働いていたロンドンを通じて輸出された。1500年には5万人だったロンドンの人口は、1600年には20万人に増加し、1700年には50万人まで激増した。18世紀にはアメリカ大陸の植民地やインドとの交易が拡大し、ロンドンの人口は再び倍増したことで、地方やスコットランドの都市はさらにより急速な成長を遂げた。こうした拡大は力強い帝国主義に依存していた。つまり、英国の海外所有地の膨張、対抗する海軍や重商主義国家に対する英国海軍の勝利、そして植民地貿易から外国人を排除した航海法である。大英帝国は英国経済の繁栄を目的として設計され、その目的が実現されたわけである。

英国貿易の成長によって3つの重要な事が起こった。第一に、ロンドンの拡大によって木材燃料が不足して、石炭の活用が唯一その問題を緩和した。図1は、この時代のロンドンで木材と石油に対する100万英熱量エネルギー当たりの実質価格を示している。15世紀の間、これら2種類の燃料は100万英熱量エネルギー当たり同じ価格で取引されており、石炭は大気汚染の問題が深刻だったため、石炭の利用は限定的であったことを意味する。1500年以降にロンドンが発展したことで木材燃料の価格は上昇し、16世紀終わりまでには木炭や薪の価格はエネルギー1単位当たりで石炭価格の2倍に増加した。この価格差によって消費者は木材から石炭に代替し始めた。大きな居間の中心にある薪燃焼用の暖炉に代わって、石炭を燃やすために壁沿いに狭い暖炉と煙突を設置した家が建築された。石炭燃焼用の住宅が考案されたことで、イングランド北東部のノーサンバーランドにある石炭鉱山を採掘する価値が生まれ、海岸沿いを通してロンドンまで石炭が輸送された。石炭貿易の始まりである。例えばニューキャッスルなどの石炭採掘場では世界的に見て英国のエネルギー価格はもっとも低廉であった。一方、ヨーロッパ大陸ではエネルギー価格はより高く、特に中国では高価だった(図2)。

第2に、都市や製造業の発展によって労働需要が増え、その結果として英国の賃金や生活水準は世界的に最高レベルとなった。図3はヨーロッパとアジアの主要都市における労働者の賃金を1375年から1875年の間で表示している。賃金レベルは消費者価格のデフレータ指数で調整されており、地理別および時間別に比較可能な購買力を示す。数字の1が意味するのは、一年間フルタイムで労働者が働いて、成年男子1人当たり1日1940カロリーの最低生存生活水準を家計にちょうど保証できる相当の所得を示している。消費者価格指数の定義のために使用された予算は、支出の大部分が最低価格で購入できた炭水化物(北西ヨーロッパのオートミール、フローレンスのポレンタ(とうもろこしの粥)、北京のモロコシ、デリーのキビのチャパティー)を中心とした食品に消費されたとして調整されている。また、ごくわずかな食肉、油、燃料、住宅が予算に含まれている。14世紀中頃に発生したペスト以降、労働者の生活水準はどこでも高く、一般的に生存最低生活水準の3倍から4倍ほどの所得を稼いでいた。それ以降の時代では、ヨーロッパとアジアで人口が成長して実質賃金は低下し、18世紀にはほとんどの労働者は最低生存生活水準をぎりぎり維持できる程度の非常に低い所得を得ていた結果になる。こうした運命を回避することができた唯一の国は英国とネーデルラントであった。実はこれらの国の人口成長は他の国より速かったのだが、国際貿易による経済の好況によってその効果は相殺された。しかし、ロンドンとアムステルダムの労働者は生存に必要なオートミールを4倍購入していたわけではない。代わりに、食品の質を高めて牛肉やビール、そして食パンを消費するようになった。一方、ヨーロッパやアジアの同様な労働者は、ゆでた雑穀に少量のエンドウ豆もしくはヒラマメを加えた、まるで菜食主義者の食事で生活していた。北西ヨーロッパの労働者は余った所得を、紅茶や砂糖などの海外の輸入品、また本、絵画、時計、そしてより質の高い服飾などの国内製造品に消費していた。

第3に、都市の成長と高賃金型の経済によって農業が発展した。特に肉、バター、チーズといった食料品の大きな需要によって、農耕可能な土地が牧草地に変わり、穀草式農法や家畜用飼料(豆、シロツメクサ、カブ)の生産が行われるようになった。そして、土壌の窒素レベルが上昇して小麦と大麦の収穫高が増加した。都市部の労働需要が増加した結果、小規模な小作地は1エーカー当たりより少人数の労働を使用する大農場に集約された。また発展を通して耕作地から牧草地への移行が進んだ。歴史家がよく議論するように、農業が都市を発展させたというより、都市の拡大によって農業革命が起こったと考えられる。

国際貿易の繁栄で高賃金・低エネルギー価格に特徴づけられる英国経済が作られ、そして、産業革命の跳躍版になったと言える。高賃金と低エネルギー価格によって、労働を資本とエネルギーに代替する技術の必要性が高まった。こうした経済的インセンティブは多くの産業で働いた。例えば、陶磁器類は英国でも中国でも製造されていたが、陶器を焼く炉のデザインは大きく異なっていた。英国の炉の建造費は低かったがかなり燃料効率が悪かった。燃料の燃焼によるエネルギーの大部分は上部の排気口を通して失われていた(図4)。それに対して一般的な中国の炉は建造費が高かったが、実際には操業のためにより多くの労働力を必要とした。図5は熱が左の小室に吸い込まれてから床の穴を通して第2の小室に押し出される仕組みを示している。熱の大部分が失われた空気が最終的に煙突から出て行くまでの間、この仕組みは多くの小室に組み込まれている。英国ではエネルギーの価格が低かったために、熱効率の良い炉を莫大な費用で建設することは経済的ではなかった。しかし中国ではエネルギー価格が高かったため、熱効率が良い炉を建設するほうが費用効果が高かった。採用された生産技術は資本、労働、そしてエネルギーの相対的価格を反映していた。新技術の開発は費用が高かったため、技術開発も同様な経済的インセンティブに合わせて行われた。

図4.英国式陶器炉

図5.中国式陶器炉

産業革命の有名な発明品は英国経済の高い賃金と低エネルギー価格に対応して生み出され、労働から資本とエネルギーに生産要素が代替された。蒸気機関では資本と石炭が集約的に使用され一人当たりの産出量が高まった。紡績・織布工場では機械を使って紡績と織布の労働生産性が高まった。製鉄の新技術で高価な木炭は低廉な石炭に代替され、機械化された生産方法で一人当たりの生産量は高まった。

こうした技術が発明された結果として世界は劇的に変化を遂げるのだが、初期の頃は英国でこれらの技術はほとんど利潤を生み出していなかった。商業的な成功は、英国で比較的低廉だった中間投入物の使用を増加することで決まった。賃金が低くエネルギーが高価だった他国では、労働力を減らして燃料の使用を増やす技術を活用しても利点はなかった。

18世紀の頃、フランス政府は先進的な英国の技術を普及させることに極めて熱心だったが、英国の技術はフランスの要素価格では経済的ではなく、こうした取り組みは失敗した。ジェームズ・ハーグリーブス(James Hargreaves)は、1760年代後半に綿を紡ぐ最初の機械である紡績機を完成させた。1771年には、外国製造業者の監査長の職務に就いていた英国ジャコバイト(English Jacobite)のジョン・ホルカー(John Holker)は紡績機をひそかにフランスに持ち込んだ。実物宣伝用のモデルは作られたが、紡績機は国営の大規模な工場にしか設置されなかった。1780年代後半までには、2万台以上の紡績機が英国で使用されたが、フランスではわずかに900台だった。紡績機と同様に、フランス政府は1780年代にブルゴーニュ地域で英国式の(4つのコークス高炉を備えた)製鉄所の建設を支援した。原材料は豊富に存在して事業には十分な資本があり、プロジェクトを監督する優秀で経験豊富な英国の技術者が雇用されたが、フランスの石炭は高価すぎて商業的には完全な失敗であった。

産業革命の技術の活用で利益を稼ぐことができたのは英国のみであったため、英国でしかこうした技術の発明に投資はされなかった。先進的な技術に体化されたアイデアは単純だった一方で、技術を実際に活用する工学的な課題が大きな問題であった。こうした課題に取り組むためには研究開発が必要で、18世紀にはこうした課題は経営の重要な一部となった。それに伴って、研究開発活動を資金的に支援するベンチャー資本家が現われ、開発成功の報酬を回収するために特許権に依存するようになった。産業革命が18世紀の英国で起こった理由は、英国こそが利益が生まれる国だったからである。

18世紀の英国で研究開発計画が成功した理由は、もう一つの特徴である高賃金の経済にあった。17世紀と18世紀に製造業が発展して商業経済が現れたことで、識字や計算能力、そして商売の技術に対する需要が高まった。これらの能力は個人的に受けた教育や徒弟制度を通して獲得された。高賃金の経済によって、こういった技術の需要が生まれ、また技術を獲得する所得が家計にもたらされた。結果として、英国の市民は(国際的な観点から)かなり熟練度が高く、こうした熟練能力は先端技術革命が実を結ぶために必要であった。

産業革命の影響が長い間英国に限定されていた理由は、技術的革新が英国の状況に適応していて、他の地域では活用しても利潤が生まれなかったからである。しかしながら、英国の技術者は効率性を高めて、英国で低廉な投入物も高価な投入物も使用を削減しようと努力した。例えば、蒸気機関の石炭消費は18世紀初期の1馬力当り45ポンドから19世紀中頃にはわずか2ポンドに削減された。英国の技術者の才気によって世界全般に対して適正な技術が開発され、英国の技術的優位性が損なわれた。19世紀中盤までには、先端的な技術をエネルギー価格が高いフランスや賃金の低いインドといった国で活用しても利益がでるようになった。いったん技術が伝播してしまえば、産業革命の影響は世界中にまたたく間に広まった。

本コラムの原文

翻訳:COE研究員、田中清泰