1910年、朝鮮が植民地化された内的原因は、朝鮮の国力の弱さに容易に求めることができる。1900年頃の日本は、国内総生産で朝鮮の5倍、財政規模で50倍程度であった。帝国主義時代に朝鮮は国力において周辺強大国に対抗することも、永世中立化を実現することも難しかった。国力を飛躍的に伸ばすためには、近代工業国として発展しなければならなかった。後進国であった朝鮮が活気あふれる工業化を推進するためには、近代国家を創出しなければならなかったが、国家の部分的改良に止まった。開港期に多方面にわたる近代的な変化があり、その速度はアジア大陸では遅い方ではなかったが、その程度では開港後から30年程度与えられた‘時間との競争’という苛酷な挑戦に勝利することはできなかった。そのような点で国権喪失の責任を開港期にのみ転嫁することはできない。
朝鮮の1人当たり生産高と税収の低位性により、軍事力が弱かったのは開港前の遺産である。国際貿易と大都市での市場上層の未発達は経済発展を制約し、かつ朱子性理学という道徳主義の繁盛を産んだ環境を提供した点で、植民地になった根本的な内部要因であった。半島国家である朝鮮は朝貢冊封体制に編入され、海禁など民間貿易に対する制約が強い状態で市場発展が図られることもなく、経済成長に根本的な制約が伴った。ところで、朝鮮半島に限られた小国が、軍事的に強力な先進文明の大国と国境を共有するという地政学的環境において、朝貢冊封体制への編入は不可避であった。朝貢体制の長い年月に渡って提供した中国との平和的関係からの便益が、このための貿易の犠牲を上回ったと評価された点で,朝貢体制の受容は合理的な選択でもあった。このように東アジアの国際環境に規定された朝鮮史の軌跡が帝国主義時代に遭遇し、植民地化という結果に終わった。朝鮮の植民地化の内的要因は弱い国力だが、朝鮮の国力を規定した根源的な要因は国際環境乃至地理的位置であったのである。