Hi-Stat Vox No.1 (2008年10月27日)

実証データと整合的な政策議論をしよう

北村行伸(一橋大学経済研究所教授)

Photo : Yukinobu Kitamura

今年度より始まった一橋大学グローバルCOEプログラム「社会科学の高度統計・実証分析拠点構築」では、各種の統計データベース、資料アーカイブを構築し、実証研究と理論研究の融合をはかり、そこで得られた予測を統計的に検証し、堅牢かつ現実的な政策提言に結びつけるという、三位一体の研究体制を布いている。 このプログラムの基本的な考え方は、十分に考えぬかれた理論モデルが、適切な統計データと、最適な統計分析手法によって実証され、はじめて経済学的に意味のある検証された事実として残るということである。

言うまでもなく、これは理論物理学者の予測を実証研究者が巨大な実験設備を構築し、それを検証して、はじめてその予測の正当性が認知されるのと同じ考え方である。そもそも物理学で実在する物質との対応関係のない理論など考えられない。例えそれが「超ひもの理論」のように現状ではどのような実証をすればその存在が確認できるのかがまだわかっていないような理論であっても、何らかの手がかりから実証への道を切り開き、その存在が確認されて初めて、その理論の正しさが証明されたと言えるのである。

経済学者は沢山の理論を作り、沢山の実証結果を生み出してきたが、理論が実証研究によって検証され、理論の正当性が証明されたということはそれほど多くない。むしろ、理論研究者は実証されることを前提としない理論を構築し、実証研究者はどれぐらいの普遍的な結果であるかを問わない実証研究を続けているというのが実情ではないだろうか。

当グローバルCOEプログラムではその垣根を取り除き、さらに積極的に有用な政策提言、経済改革への道のりをつけることに関わっていきたいと思っている。いくつかの点について述べておきたい。

現在の経済政策の多くが政策発動後に問題が出て機能しない、あるいは見直しを迫られるということが続いている。例えば、後期高齢者医療保険制度は、明らかに政策発動前の準備不足、制度設計上の不備が明らかになり、現場は大混乱に陥った。当初、厚生労働省は強引に運用を継続しようとしていたが、その後、微修正をパッチワーク的に行い、さらには制度自体の見直しを行うと厚生労働大臣が発言するというドタバタぶりを露呈した。このような政策の混乱は医療に限られたことではない。建築基準法の改定も建築業に大きな負担増をもたらし、想定外の大幅な建築減となったことも記憶に新しい。

ここに見られる問題点は次の点にまとめることが出来る。政策を実施する前に実証データと既知の行動モデルをベースにした政策デザインをすることが重要である。さらに、医療や年金など長期に影響を与えるような制度に関しては、執行途中での政策変更は調整コストが膨大になる可能性があり、できるだけ制度変更を必要としないような、よく考え込まれた政策・制度設計をすべきである。経済学者、計量経済学者は政策実施後の評価に関しては多くの研究を行っているが、政策を実施する前に、実施した場合に発生すると想定される反応を、ある程度予測した上で政策デザインを行うという問題に関しては官僚任せでそれほど取り組んでこなかった。しかし、上述のような事例からも明らかなように、政策立案、事前査定の重要性を考えれば、今後は経済学者が政策立案、政策デザインの場に積極的に関与すべきであろう。政策実施後におこる反応を実証データによって予測することは、政策担当者である官僚よりも、大学にいる研究者の方に比較優位がある。ここでは、政府側は統計や情報を開示し、官学連携により、より精緻な政策デザインをすすめるような仕組みを作ることが望まれる。

経済政策や制度を実施しても、思ったような効果が出ない根本的な理由は、政策が経済主体のインセンティブと両立していないことにある。すなわち、政策に該当する当事者が、それに参加し、その制度を享受することが、自分にとっても最善であると意識されていなければ、制度は機能しない。政策として強制しても、それを受け止める側に不安や不信、あるいは他によりよい方策があると考えられていれば、政策や制度が望ましい効果を挙げることはできないのである。ではどうすれば良いのか?やはりここでも政策が実施される前に、実証データにより、経済主体の反応がどうなるのかを徹底的に分析しておくことである。官庁内の政策担当者からは、限られた時間内で実施しなければならない政策に、そんな悠長な余裕はないという反応が返ってきそうであるが、そうであればこそ、大学の研究者は、想定される状況に応じた経済主体の反応を分析する基礎研究を続けておくべきである。実際に経済政策を立案する段階に到って、あわてて実証研究を行うのでは遅い。大学の研究者が政策立案に使えるような種々の実証結果の蓄積をしておくことが重要なのである。

これまで霞ヶ関の官僚機構が日本の政策シンクタンクとして機能してきたと言われているが、公務員制度改革や政治家中心の立法手法が用いられるようになれば、政策立案に供する基礎研究の部分はますます、大学を中心とした研究者集団が担わなければならなくなるだろう。このような状況はわれわれにとってのビジネスチャンスであるという意識の下に当グローバルCOEプログラムが実施されていくことを切に願っている。