Hi-Stat Vox No. 4 (2009年2月25日)

古典派の歴史像,新古典派の社会像
—新しい経済史のコンセプトを求めて—

斎藤 修 (一橋大学経済研究所教授)

はじめに

経済発展というものの尺度を人口一人当りの総所得ないしは総生産とすると,そういった事象はけっして近代の産物ではなく,はるか以前の時代からみられたことであった。アンガス・マディソンの仕事が示しているように,年当りの成長率では0.1%とか0.2%という程度でしかなかったかもしれないが,その成長が一世紀間,二世紀間続くということはヨーロッパにおいても日本においても現実にあったことであった。他方,新しい定説によれば,最初の産業革命といわれる英国の18世紀末から19世紀初頭における経済変化は,総生産の年増加率で1.7%,人口一人当りでは0.4%程度にすぎなかった。前近代と近代は截然と区別できるものではないのである。このようにみると,そもそも経済発展とは何なのかと考えさせられる。経済発展という現象を,近代社会に固有の何かと関連づけて理解しようという発想は間違いなのかもしれない。これからの経済史研究において基本コンセプトは何に求めたらよいのだろうか。

古典派

古典派経済学者には独特の歴史観があった。もちろん古典派といっても多様で,アダム・スミスからジョン・ステュアート・ミルまで幅広い。労働価値説に立脚していたという基準をとるなら,マルクスを広義の古典派にいれることだってできる。しかし,ここで私が古典派と考えているのは,マルサスとリカードウに始まり,戦後の開発経済学の一部に復活した考え方までを一括りにしてのことである。彼らにとって経済学とは人びとの生活水準にかんする学問であり,その考え方の根幹にはマルサスの人口論があった。すなわち,経済の歴史的変化の過程を人口と資本蓄積のレース,マルサス自身の比喩によれば「兔と亀」のレースとして解釈する発想法があると思うからである。

そのなかでもマルサスの古典的人口論にもとづく解釈は,人口の幾何級数的な増加と経済の収穫逓減傾向を強調する傾向があり,悲観論へ傾く。マルサスの友人リカードウも基本的に古典的人口論を絶対の真理として受入れ,資本蓄積への「有利な事情」が働く可能性を認めた一方で,究極的にはいかなる経済であっても収穫逓減法則から逃れることはできないと考えた。後期マルサスとなると,人口自体の自己抑制力への視点が登場し,悲観的なシナリオの修正が図られた。その後,「もし兎を眠らせることができるならば,亀が兎に追いつく見込みも多少はあるかもしれない」と述べた後期マルサスや新マルサス主義者が期待したように人口転換が進行すると,経済学者の関心はどのような状況の下で資本蓄積は進展し,人びとの生活水準の向上が可能となるかに集中するようになった。ただ,いまだ人口圧力に苦しむ発展途上国にかんしては,アーサー・ルイスのように過剰労働力の存在下での発展メカニズムをモデル化したひともいたし,他方では,社会主義的な経済計画によって重化学工業化を目指す路線を推奨する経済学者もいた。このように様々な立場がありえたが,これらすべての知的営為の根底には,人間の歴史は人口と経済のレースだという,暗黙の前提があったように思う。

実際,戦後における経済史の潮流をみると,その古典派的発想にいかに強く影響されていたかがよくわかる。といっても,日本の経済史学界をみただけではあまりはっきりしないのであるが,欧米における戦後経済史学は基本的にこの流れのなかにあったといってよい。それだけ根強い歴史観といってもよいであろう。この見方によれば,経済の歴史に歴史性をもたらすのは人口自体の律動と,経済の外部で生じた変化,たとえば科学技術の世界で起きたイノベーションのように資本蓄積へ「有利な事情」として働くところの変化である。産業革命が前近代の体制を終焉させ,近代経済成長への扉を開いたという歴史像が出てくる所以である。しかし,その解釈はあまりにも図式的にすぎるというのが近年の実証研究の教えるところである。

新古典派

ここで新古典派経済学に目を転じたい。新古典派の描く歴史像はどのようなものなのだろうか。このような話題が論じられたという記憶は私にはあまりなく,今後,経済思想の専門家に本格的な論議をしてほしい問題ではあるけれども,経済史家にとっては興味ある問題である。私自身は――やや印象論的ではあるが――新古典派には固有の歴史像がないのではないか,あるのは社会像ではないかと思っている。

その社会像とは,市場における自由な取引が社会における効率的な資源配分をもたらすという命題を出発点として,その命題の背後にある社会関係の結び方を核として造りあげられた社会像である。そして,その社会観の最良にして最適の語り手がハイエクであることに誰しも依存はないであろう。

しかし,その社会観はあまり歴史的ではない。自己調節作用を有した市場機構というものを中心におくだけでは意味のある歴史像とはならないと思うのである。そのことを示すにはハイエクの著作ではなく,新古典派理論体系の形成に大いなる貢献をしたが,それとは一味違ったスタンスをとっていたジョン・ヒックスの経済史観をみてみるのがよいであろう。彼は『経済史の理論』の第1章で,

「マルクスのいう「資本主義の勃興」に先行するものとして,一つの変容が存在する。その変容は最近の経済学に照らしていえば,よりいっそう基本的であるとさえ思われるものである。それは「市場の勃興」,すなわち「交換経済の勃興」である」(原著1969年;講談社学術文庫,1995年,21頁)

と記していたからである。これだけみれば,「市場の勃興」こそが経済史の基本コンセプトといっているように読める。それ自体はけっして間違いではないが,しかし,ここで彼がいう「変容」とは,その萌芽が「あまりにも遠い過去」にあるような超長期の趨勢のことを指している。『経済史の理論』を読んでみればわかることでもあるが,商品の市場経済は非常に以前から存在し,それは十分に機能していたのが実態なのである。歴史家ブローデルのいうところでは,

「19-20世紀よりははるか以前に,市場経済は存在した。古代からすでに,価格は変動している。13世紀には,価格はすでにヨーロッパ全域で一致して変動している。その後,ますますより厳密に規定される境界内で,一致はより明確な形をとるであろう」(ブローデル『交換のはたらき』原著1982年;みすず書房,1988年,第1冊,281頁)。

それどころか,ある意味では,小商人が集う中世や近世の定期市のほうが新古典派経済学者の想い描く効率的な自由市場にはるかに近い。これはブローデルだけではなく,ヒックス自身の考えでもあった(彼が『経済史の理論』を書いた真の動機は,近世・近代におけるflexpriceの市場経済から現代のfixpriceの経済への流れを描きだしたいというところにあった)。商品の交換経済を中心にすえると,近世から近代へという,多くのひとが関心をもつ時代の経済史像は描きにくいのである。

第三のアプローチ

古典派の理論にあっても新古典派の枠組においても,肝心の経済そのもののなかには発展への契機があまりないようである。後者には中世から機能していた市場メカニズムしかないし,前者で中心的役割をはたすのは経済の外部にある要因の変化,すなわち人口か技術革新か(リカードウが主張した穀物法廃止によって期待できるような)制度改革の長期的効果などだからである。

もちろん,市場と政治との関係のなかに歴史を見出す考え方も成立つ。そこでは制度づくりが主要なトピクスとなろう。また――これはヒックスがとった立場でもあるが――「市場の勃興」史観が現実に歴史性を帯びるのは,市場原理が労働とか土地といった要素市場に浸透し始める過程においてだと考えることもできる。しかし,経済そのもののなかに収穫逓増の芽をみることも可能であり,それが経済学におけるもう一つの伝統を形成しているのである。

この第三の途は,通常は新古典派経済学の祖とみなされているマーシャルにみることができる。彼が外部経済という効果を発見したのは,収穫逓減を過度に強調した古典派命題をいかに克服するかという知的営為のなかからであった。しかも,アリン・ヤングの解釈を採れば,その発想はアダム・スミスの分業論にまで遡ることができる。それはピン製造所のなかでの分業ではなく,社会的規模での分業の展開にかんする理論である。すなわち,分割された製造工程がそれぞれ産業として独立し,そのあいだに各産業の産物が取引される市場が新たに発生することを意味し,そのことが収穫逓増をもたらす。その分業の深化自体は「市場の大きさに制限される」ので,適度な人口増加や海外市場の開拓は収穫逓増をいっそう促進する――これがスミスの分業論のポイントである。したがって,この第三のアプローチでは,新古典派がこだわった市場というコンセプトを古典派の関心事であった産出量増大と生活水準向上の歴史に結びつけることが可能となる。もっともここで重要なのは,出来上がった市場における市場配分機構そのものというよりは,市場と市場のあいだに新たな市場が登場するというダイナミックな側面のほうではあるが,それにしてもこれは二つの伝統を架橋する試みである。そして,その考え方によって,最初の産業革命が中間財生産部門の独立とそこにおける革命であったこと,そしてその後の工業化によって成長の趨勢加速が起こったことの意味が無理なく理解でき,他方,スミスのもう一つの分業命題「分業は市場の大きさに制限される」からは,いま先進国で起こりつつある人口減少のインパクトが理解できるのである。

これは,私が近著 『比較経済発展論:歴史的アプローチ』 (岩波書店,2008年) でとった接近法でもあった。もっとも,それは歴史制度分析や要素市場の勃興論と排他的なアプローチではない。むしろ補完的といってよい。実際,要素市場の問題は,スキルの問題と並んで『比較経済発展論』においても論じられたことであった。経済成長のグローバルな歴史をみると,近代の工業化という変容が一つの資本主義像に収斂したわけではなかったことが明らかであるが,これらは補完的な接近法はいずれも,発展の途はなぜ複線的なのかを理解するうえで重要な役割を演ずるにちがいない。