Homescanが拓く新しい家計行動分析
阿部修人(一橋大学経済研究所准教授)
家計消費支出の研究、特に食料支出パターンに関する数量分析は古くから存在しており、Stigler (1954)によると、18世紀末のイギリスにおいて127家計の支出パターンが調査されている。19世紀になると、ベルギーやドイツ等多くの国で家計支出データが蓄積されていき、Engelによる有名な法則の提示などがなされるが、近代的な経済理論と家計消費データが結びつくのは、マクロの集計データにより長期的な分析が可能になる20世紀まで待たねばならない。DuesenberryやFriedman, Modigliani, Kuznets達による、名高い「消費関数論争」が交わされたのは1930年以降であるが、当時利用可能だった家計レベルのデータの調査期間は短く、長期的な消費行動の分析はマクロデータに寄らねばならなかったのである。
家計消費に関する実証分析は、その後も長きにわたりマクロデータに基づいて行われており、Hansen and Singleton (1983)やCampbell and Mankiw (1989)等、1980年代には計量分析手法の発展も手伝い、多くの分析が行われるようになった。21世紀に入った現在でもマクロモデルの構造パラメターの推計の際には、マクロの家計消費データが用いられることがある。しかしながら、今日では、家計消費行動分析の圧倒的多数は家計レベルのミクロデータに基づくようになっている。1980年代のマクロ経済モデルにおいても、標準的な家計消費の構造モデルは不確実性を伴う家計のライフサイクルモデルを基本としており、完備資本市場や等価定理等の強い仮定を置くことで強引にマクロデータの使用を正当化していたのであるが、そもそも、長期のミクロ消費データが利用可能であれば、年齢や学歴、職業等、多くの点で異質な個人支出の集計値であるマクロの消費データを扱うメリットはほとんど存在しない。
本格的なミクロパネルデータであるPanel Study of Income Dynamics (PSID)は1969年から家計食料支出の記録を始めている。そのデータを用いたHallとMishkinによる家計消費の実証分析が公刊されたのは1982年のことである。PSIDは、その後も多くの分析に用いられてきたが、現在では、主役の座をConsumer Expenditure Survey (CEX)やFamily Expenditure Survey (FES)に譲っている。その理由は、PSIDは食料支出のみの調査であるのに対し、CEXやFESではほぼ全ての消費支出カテゴリーに関する調査を行っており、包括的な支出行動の分析が可能になっているためである。もっとも、CEXやFESにも多くの欠点があることが知られている。CEXやFESは、一部の例外を除き、家計簿をつけさせておらず、記憶に基づいているため、多量の計測誤差が含まれている。そして、近年の多くの研究では、計測誤差は真の値と負の相関を有していることが報告されており、回帰分析等を行う際に大きな障害となってしまう(Ahmed, et al. (2006))。また、同一家計を長期間追跡しておらず、長期の消費系列はコホート単位となり、集計量を扱うことになる(集計する際に、ミクロのデータを用い等価支出等に変換可能ではあるが)という欠点もある。
21世紀に入った今日、PSIDでもCEXでもない、究極のミクロデータとも言うべき新しい種類の消費データを用いた経済分析が行われるようになってきている。homescanという手法で蓄積された家計支出データは、家計にバーコードリーダーを設置し、日々の買い物を商品単位で、どこの店で、いくらで、何個購入したかの記録が含まれている。このようなhomescanデータは全世界で蓄積されており、アメリカ合衆国、イギリス、日本のような先進国のみならず、中国、インドネシア、インドでもデータベースの構築が進んでいる。容易に想像されるように、極めて高額の収集費用が必要なデータであるが、商品単位の詳細な購買データであるため、貴重なマーケティング資料としての需要がある。これまでは主としてマーケティングサイエンスの分野で、ブランドや店舗選択の推計に用いられてきたが、ごく近年になり、経済学者による分析が増加してきている。
Homescanを用いた経済分析には、家庭内在庫に関する分析を行ったHendel and Nevo (2006)等があるが、もっとも有名なものは、Aguiar and Hurst (2007)がAmerican Economic Reviewに発表したものである。その論文において、彼らはアメリカのデンバーにおいて、AC Nielsen社が構築したhomescanを用い、家計毎に物価指数を作成した。そして、高齢家計ほど、同一商品を安く購入していること、購入頻度と購入価格の間には強い負の相関があることを見出している。引退した高齢家計の方が、若年・壮年家計よりも多くの時間をショッピングに費やしていることを考えると、ショッピングの機会費用と、そのベネフィットである安い価格のサーチという、シンプルなトレードオフがあることになる。PSIDにしても、CEXにおいても、利用可能な情報は支出総額のみであるが、商品単位で、実際にいくらで購入しているかの情報を用いることにより、より詳細かつ正確な家計消費行動の分析が可能になるという好例である。
Aguiar and Hurst (2007)のモデルは、極めて一般的な家計行動を念頭に置いている。では、日本においても、同様に、高齢家計ほど安い価格で商品を購入しているのだろうか? 図は、日本のhomescanを用いて、Aguiar and Hurst (2007)と同様の家計別物価指数を作成し、年齢別にプロットしたものである。緩やかではあるが、年齢とともに、購入価格が上昇していることがわかる。他国のhomescanを用いた分析においても、筆者の知る限り、Aguiar and Hurst (2007)の結果の再現に成功しているものはない。自然な解釈は、年齢と物価の間には、単純かつ美しいAquiar and Hurst (2007)のモデルよりも複雑なメカニズムが背後にあると考えることであろう。店舗選択、バーゲンにおける購入頻度等を取り込む形で消費のライフサイクルモデルの構築が必要になるが、これは現在、homescanを用いている研究グループ間で共通の課題である。
もう一つの興味深い研究の方向性は、個別商品データであることを利用し、商品に含まれるカロリーや栄養バランスの情報を用いた分析を行うことである。欧米では、貧困世帯ほど肥満になる傾向があり、その背後には低価格商品に高カロリーなものが多いことを考えることが出来るが、homescanの商品データベースを拡張し、かつ調査協力家計の肥満度を調査することで、貧困と摂取カロリーの関係を定量的に評価することが可能である。
個別商品データという以外にも、homescanには、同一家計を数年間調査しているため、日次の長期パネルになっているという特徴がある。PSIDは一年に一度、CEXでも四半期に一度であったのに対し、homescanは極めて高頻度の長期パネルデータとなっているのである。これは、ミクロデータでは従来困難であった、家計在庫と習慣消費形成仮説の分析が可能になることを意味する。無論、homescanを消費データとして扱う歴史はまだ浅く、その特徴、利点、欠点もまだ十分には把握されていない。しかしながら、PSIDが、1980年代において、家計消費理論のミクロデータに基づく実証分析を可能にしたのと同様の、新しい家計消費分析の時代の到来をもたらす可能性もある。現在、イギリスとフランス、アメリカおよび日本のhomescanが経済学者にとり利用可能となっているが、今後、途上国も含め、さらに利用可能な国は増えていくと思われる。家計消費行動の文化的な差、およびその背後にある共通のメカニズムの解明が進んでいくことはほぼ確実であろう。その中において、日本のhomescanも主要な地位を占めることが出来ればと望んでいる。
参考文献
Aguiar, M. and E. Hurst (2007) “Lifecycle Prices and Production,” American Economic Review, Vol.97, No.5, pp.1533-1559.
Ahmed, N., M. Brzozowski, and T.F. Crossley (2006) “Measurement Errors in Recall Food Consumption Data,” IFS Working Paper, W06/21.
Campbell, J.Y. and N.G. Mankiw (1989) “Consumption, income and interest rates: reinterpreting the time series evidence,” in: O.J. Blanchard and S. Fischer, eds., NBER Macroeconomics Annual 1989 (MIT Press, Cambridge, MA) 185-216.
Hall, R. and F.S. Mishkin (1982) “The Sensitivity of Consumption to Transitory Income: Estimates from Panel Data on Households,” Econometrica, Vol.50, No.2, pp.461-481.
Hansen, L.P. and K.J. Singleton (1983) “Stochastic Consumption, Risk Aversion, and the Temporal Behavior of Asset Returns,” The Journal of Political Economy, Vol.91, No.2, pp.249-265.
Hendel, I. and A. Nevo (2006) “Measuring the Implications of Sales and Consumer Inventory Behavior,” Econometrica, Vol.74, No.6, pp.1637-1673.
Stigler, G. (1954) “The Early History of Empirical Studies of Consumer Behavior,” The Journal of Political Economy, Vol.62, No.2, pp.95-113.