Hi-Stat Vox No.15(2010年9月2日)

博士の愛した日中数量経済史*
—アンガス・マディソン氏を偲んで—

Harry Wu(一橋大学経済研究所教授)

Photo: Harry Wu

2010年4月24日、超長期にわたる世界中の主要な国々の経済成長のパフォーマンスを数量的に明らかにした、歴史上もっとも才能にあふれた学者の一人を我々は失った。アンガス・マディソン教授は白血病に起因する合併症によって、パリのアメリカンホスピタルで逝去した。彼は今、コンピエーニュにほど近い、その晩年を妻ペニーとともに過ごしたシュヴァンクールという村の教会墓地に静かに眠っている。そして、それと同時に、彼の二人の息子であるジョージとチャールズ、娘のリジー、そして5人の孫達のなかに生き続けてもいる。

Photo: Angus Maddison
Angus Maddison (1926–2010)

アンガスは人類史における成長、発展の要因とその動態を理解、解釈することに生涯を捧げたが、彼の人生と仕事については、デレク・ブレイズ、バート・ヴァン・アーク、および私自身による論説(近刊)において、すでに多くのことが言及されている1。ここでは、彼を偲ぶべく、彼の多岐にわたる研究活動のうち、日本と中国の長期的な経済成長にかんする数量経済史的研究、および彼と中国、日本の研究者とのかかわりについて書き記したい。確かに、中国と日本に話を限定したとしても、与えられた紙幅の中でそのすべてを詳述することは難しいかもしれないが、本稿の執筆依頼を受けた時にすぐに私の脳裏をよぎったこの題材は、この場にもっともふさわしいものであると思う。

アンガスが日本と中国にかんする研究に情熱を傾けるようになったのは、決して偶然ではない。そのそもそものきっかけは、アジアの二つの大国の経済発展における組織・制度の役割への関心にあった。彼がフローニンゲンにいた期間のうちの最初の半分(1978年から1980年代後半まで)は、成長と発展にかんする網羅的な研究に費やされた。これを題材とした初期のいくつかの著作に続いて、彼は1982年と1991年に2本の重要な論文を、また1987年には、後世に大きな影響を与えることになった成長会計に関する論文をJournal of Economic Literature誌に発表する。これらの論文は、成長と発展の源泉およびその動態を彼がどのように理解したのかを論じたものであった。彼の議論の特徴は、いわゆるコンドラチェフの長期波動が想定する以上に、技術革新および発明の伝播はより一層漸進的であるとした点と、「制度的なショック」の重要性を強調した点に求められる。彼は、「制度的なショック」は時に歴史的もしくは偶発的な事象であるものの、そのインパクトは人々の期待の変化や当時の経済政策を通じて増幅されたのだと考えた。数量データに裏打ちされた彼の見解は、18世紀後半における「産業革命」の革命性、急進性を主張する研究者や、経済成長のためには経済の「離陸」が必要だとするロストウの見解を支持する伝統的な経済発展論者にたいする挑戦であった。また、彼は、経済成長をモデル化する際には、それまで重視されていた成長の直接的な源泉(数値として計測可能な労働力、労働資本や土地などの投入量)だけでなく、根源的な源泉(制度、政治、社会、文化)を明示的に考慮する必要があると早くから提唱していた。彼は、これら二つの源泉の複雑な相互関係が、中世ヨーロッパにおける多極的な経済成長を可能にしたのだと考えていたのである。

私は、アンガスの著書The World Economy: A Millennial Perspectiveの中国語版出版を記念して、彼が最後に中国に訪れたときのことをよく覚えている。私は彼とともに、南宋(1127-1279)―彼の推計によれば、南宋は当時世界でもっとも繁栄した国であった―の首都、杭州を訪れることになった。我々は彼に高速道路で事故に遭遇する可能性があること、体力的にきつい日帰りの旅になることを伝えたが、それでもなお、彼の杭州訪問への熱意は失われなかったからである。しかし、かの地を踏みしめた興奮とともに彼の目に映ったのは、いにしえの繁栄の面影を失った街の姿であった。そのとき彼が漏らしたのは、「誤った政策や支配階級の愚行は、蓄積された国富を数世紀のうちに消し去ってしまうのだろうか」という問いかけであったが、思えばこの問いこそが、彼が長きにわたり追求し、その答えを得ようとした未解決の難問そのものであったように思う。

その後、アンガスは西ヨーロッパ以外の国々の経済成長のパフォーマンスを計測するという仕事に再び取りかかった。しかし、その作業は次第に国際比較により重点を置いた研究へと変化し始める。1980年代初期、彼はポール・ベロックの見解、すなわち西ヨーロッパ諸国で産業化が始まったとき、人々の平均的な生活水準は、現代の発展途上国のそれ以下であったとする見解を批判した。ベロックの主張は、産業化が始まる時点において、西ヨーロッパはすでに他の地域よりもかなり豊かであったとするデビッド・ランデスとサイモン・クズネッツによる推測とはかけ離れたものであったが、アンガスにとって、数量的に際だって異なるこの結論は大変重要な含意をもっていた。曰く、「もしベロックが正しいとするなら、第三世界の後進性は植民地支配による搾取によって説明されることになり、ヨーロッパの繁栄を説明する要因のうち、科学技術の先進性、数世紀にわたる蓄積、組織と金融の繁栄がしめる割合はより小さくなるはずである」(Maddison, 1983)と。彼は、ベロックとその追随者達がおそらくは現代における所得格差を過大に評価し、発展途上国における1人あたり所得の成長を過小に評価しているということを示すために、その当時入手可能なデータをその証拠として用いたが、このことは彼が国際比較分析により集中的に取り組むきっかけを与えた。近年の中国にかんする研究(下記参照)につづいて、彼は産業革命期における経済成長のパフォーマンスにかんする東洋・西洋間の比較研究に再び取り組み、特にケネス・ポメランツに代表される研究者達が、中国は18世紀の終わりまで西洋よりも遙かに発展していたと主張した際には、自らの手による960年以降の中国の国民所得推計に基づいてこの見解を厳しく批判した。

1960年代初期から1970年代の初期にかけて、彼はOECD Development Centreで主に経済発展にかんする研究に従事し、同時にTwentieth Century FundならびにHarvard Advisory Serviceで経済アドバイザーとして活動した。ここでの彼の研究の主要な目的は、なぜ西洋諸国よりもその他の国々が貧しいのかを明らかにすることと同時に、両者間で何が異なるのかを示すことであった。彼は、「非西洋諸国における経済成長のレベルの違いは非常に大きく、それぞれの国々が過去に生み出してきた制度や組織の性質はまったく異なっている」ことに気づいた。「後進性」がなぜ生じるのかについて考えを巡らせる中で、彼はいくつかの主要な国々の事例を深く掘り下げ、植民地化、土着の社会勢力、組織、所有権、宗教、そしてイデオロギーがそれらの国々で果たした役割を探った。

彼が研究対象とした「第三世界」の7つの国々の最初のひとつに選ばれたのは、日本であった。著書が刊行された順序という意味では、中国は彼の最後の研究対象であり、彼が1969年に日本にかんする著書を出版して以来、ほぼ30年が経過した1998年にようやく中国を対象とした著書が刊行されたけれども、実際には彼が研究を進める過程で、中国がその念頭から離れたことはなかった。日本が明治維新以降、西洋を積極的に受け入れ、速やかなキャッチアップを達成したのにたいし、同時期の中国が最悪の状態に陥ったという対比は、アンガスにとって、経済成長における制度や組織、ならびに政策の役割を考える上で格好の材料を提供したのである。

アンガスは1961年に日本を初めて訪れ、一橋大学経済研究所において大川一司やその他の研究者と顔を合わせる。このとき、大川は13巻におよぶ長期経済統計シリーズの刊行に着手していた2。その後の生涯にわたって、アンガスは大川の指揮による数量経済史研究の成果と、経済研究所の研究環境を高く評価し続けた。また、この当時の訪日に際して、アンガスは日本社会のありようにも強い感銘を受けたようである。後に彼は1965年の日本滞在の経験をこう述懐している。「厳しい規律と、時計仕掛けのような組織・・・(そして)私が訪れたソニーのラジオ工場では、職工長はみな博士号をもち、すべての工場労働者が高等学校教育を受けていた」(Maddison, 1994)。

経済研究所に所属する次世代の研究者とアンガスとの交流は、1980年代後半に始まった。1989年、尾高煌之助と斎藤修が受け入れ人となり、彼は日本学術振興会の客員研究員として日本を訪れる。尾高によれば、初めてアンガスに会ったとき、経済成長論と経済史にまつわるさまざまなトピックに強い関心を持つ、いうなれば大川に非常によく似た人物という印象を持ったという。そして、それゆえに彼とアンガスはすぐに打ち解けあい、いつ終わるともしれない知的興奮に満ちた会話が続いたのだと。約6週間におよぶ経済研究所での滞在中、アンガスは研究所の若手を含めた研究者と交流を深めるとともに、ヨーロッパ言語で書かれた日本経済史に関連する書物を読みあさった。さらに1998年、アンガスは再度、長期間日本に滞在する機会を得る。このときすでに経済研究所では、尾高をプロジェクトリーダーとして、アジア各国の長期経済統計の整備を目指す最初のCOEプログラムが始動していた。滞在中、アンガスは斎藤との議論を通じて日本経済史にたいする理解を深めたが、そのとき俎上に載ったのは主に人口史にかんする話題であったという。そして、この斎藤との議論は、アンガスが2001年に出版した著書、The World Economy: A Millennial Perspectiveでの日本の経済発展にかんする叙述に少なからぬ影響を与えることになる。

アンガスは、時にセミナーでの講演や、経済研究所のCOEプログラムの外部評価のために短期間ではあるが日本を訪れることがあり、経済研究所とGroningen Growth and Development Centre (GGDC)との若手研究者の交流に尽力した。実に、私に尾高を紹介し、経済研究所との縁を取り持ってくれたのはアンガスであった。そしてついに、2007年9月から10月にかけての滞在が、彼にとって最後の訪日、ひいては最後のアジアへの旅となる。この訪日の目的の一つは、経済研究所が主催する国際シンポジウムへの出席にあったが、最大の目的は、彼の学術文化の発展、特に経済学にたいする多大な貢献を顕彰した一橋大学名誉博士号授与記念式典に出席することにあった。

ベロックおよびその支持者との論争のなかで明らかになったことの一つは、中国の長期的な経済成長のパフォーマンスを数量的に検証することの重要性であった。これは、単に中国の実態を把握するためには数量データが必要であるというだけでなく、数量データを通じた中国との比較によって、西欧以外の他の経済社会の位置づけを明確にすることができるということをも含意していた。実際、論争では、彼は他の研究で見られるような西欧と中国との比較ではなく、徳川期の日本と中国との比較研究を試みている。また、アンガスは他の研究者と同様に各国間の分岐(divergence)の過程を描く一方で、歴史上大きな意味を持った収束(convergence)の過程を明らかにすることにも注意を払い、多大な努力を傾注した。そして、このような観点から彼がおこなった研究、たとえば、ヨーロッパが最底辺を脱出し中国を追い抜く過程や、徳川期における日本の中国へのキャッチアップ、急速に先進国との差を縮めることに成功した中国、インド、ならびにいわゆるアジア四小龍とよばれる国や地域に代表される戦後アジアの復興についての研究のなかで、中国は他国との比較対象として常に重要な役どころを演じているのである。

アンガスの中国にかんする初期の研究は、主にDwight Perkins (1975), Ta-chung Liu and Kung-chia Yeh (1965)による数量的な研究、ならびにThe U.S. Congress Joint Economic Committee (1978)に依拠していた。これらの研究のうちのいくつかは、前述のベロックとランデスおよびクズネッツ間の論争にたいする彼の論評の中に見受けられる。論争の終息後、おそらくは1990年代前半から、彼は中国経済史研究にたいする関心をより一層強め、中国を題材とした数量分析にかかわる書物を渉漁しはじめた。彼自身の研究および他の研究者との共同研究は、Chinese Economic Performance in the Long Run (1998)として結実するが、この間に彼は中国の経済学者との交流および共同研究を開始していた。なかでも、彼と私との共同作業は、中国国民経済計算の再構築、既存のものに代わる中国の工業指数の作成、2007年に刊行された彼の著作の改訂および改善を含む、彼の三つの著作の中国語版の出版と多岐にわたり、その意味で私は、1990年代以降、彼の中国経済成長研究の共同研究者として多くの時間を費やした唯一の経済学者であったといえるかもしれない。

1993年、計画経済期の中国のGDP推計にかんする私の論文が、The Review of Income and Wealthに掲載されると、アンガスはすぐに私に連絡をくれた。以来二人の間で、統計の取り方や制度の欠陥に起因する中国の公式統計の問題点や、中国のGDP推計を改善するための方法などについて、ファクシミリを使ってのやりとりが始まった。1995年にオーストラリアのニューイングランド大学で開催された、プラサダ・ラオ主催の経済学コンファレンスで初めて顔を合わせてからは、我々の交流はさらに深まっていった。その後、私の1993年の論文で明確に論じられなかった問題、すなわち計画経済期の政府による価格の撹乱という問題を回避するためには、主要財の物的な生産量データを使えば良いのではないかというアイディアが二人の間に生まれてきた。1996年初頭、中国の製造業のGDPを再推計するため、はじめは彼のシュヴァンクールの自宅で、その後GGDCにおいて、私は2、3ヶ月におよぶ彼との共同作業に取り組むことになる。我々は取り上げるべき財の選択からベンチマークの選定、さらにさまざまなレベルにおける各財のウェイト付けの方法、および集計方法の問題に至るまで、すべてのことについて細かく検討した。推計作業の各工程において、彼はいつもその推計結果を注意深くチェックし、各商品別、各産業別の推計結果が出るたびに二人で意見を出し合った。このときの私の仮推計の結果は、政府の製造業統計は総生産の成長率を過大に計測する一方で、生産量自体を過小に見積もっているという彼の仮説を強く支持するものであった。その後、推計値は改訂と更新を重ねたが、最初に観察されたこれらの事実を否定するような結果は今もって得られていない。

私との共同研究を進めると同時に、アンガスは中国の長期経済統計データ構築にまつわる三つの研究をおこなっていた。すなわち、生産量データを使った1975、1987、1994年の中国の農業生産にかんする推計、1987年のアメリカをベンチマークとした中国の農業生産物の購買力平価の推計、そして中国の「非物的」サービスの生産量にかんする推計である。こうして彼の手による推計と、製造業、鉱業、公益事業にかんする私の推計とを組み合わせることで、中国の産業別GDP推計が完成したのである。いうまでもなく、これらの推計結果は、彼が生前に出版した著書のなかで最後にしてもっとも包括的なケーススタディとなったChinese Economic Performance in the Long Run (1998)において、彼が議論を組み立てていく際の数量的かつ整合的な根拠となっている。

このような中国経済史にかんする画期的な研究がひとまずの締めくくりを迎えた後、アンガスは彼自身の中国の長期経済発展像を次のように描写している。「王朝期中国の経済発展の特徴とその時系列的な変化についての私の見解(たとえば、宋代における人口1人あたり所得の上昇と、14世紀から19世紀にかけての停滞)は、マーク・エルヴィン、R.M.ハートウェル、エリック・ジョーンズおよび林毅夫によるものと大きくは異ならない。しかしながら、彼らはマクロ指標に基づいた数量的な分析を試みておらず、定性的な証拠に基づく彼らの主張は、おそらく、宋代における経済成長は私がデータで示した以上に急激なものであったということを暗黙のうちに想定しているように思われる。たとえば、彼らのうちの幾人かは、宋代中国は産業革命に突入するかしないかの境界線上を揺れ動いていたと主張しているが、データから判断すればそれはいささか誇張にすぎる見解であるといわざるをえない。さらに幾人かの主張は、1300年から1850年にかけての停滞と「創造性」の衰退の程度を過度に強調しすぎるきらいがある。この期間において、確かに中国はさまざまな困難に直面しはしたが、ごくわずかにせよ1人あたり所得を上昇させ、同時に4倍以上の人口増加(同時期のヨーロッパでは3倍以下)を達成している。このような大規模な「外延的」成長を、単純に停滞と同義のものとすることはできない」3

アンガスの中国にたいする情熱はその最晩年まで失われることがなく、健康状態が悪化しつつあった2007年、Chinese Economic Performance in the Long Runの大幅な改訂が終了する。事実、この本が出版された1998年以降、彼は私との共同作業を継続し、その間に私が推計した工業指数は少なくとも三度改訂され、彼の手による他産業の推計をどのように改善するかについて、特に原データがもつ問題を中心に検討を続けた。この間、彼は、胡鞍鋼、李伯重、林毅夫、馬徳斌、孟欣、王小魯など、幾人かの中国人研究者との交流を深め、また、彼の中国研究が進展するにしたがって、任若恩、許憲春、岳希明らの中国人経済学者と、中国における価格変動やサービス部門の生産と労働をどのように計測するか等について幅広く意見を交換するようになった。

そして、まさに今年の2月、すなわち彼が鬼籍に入る2ヶ月前の段階で、私が提案した新しいアプローチを使うことで中国の改革開放後の経済成長のパフォーマンスを再評価できるかどうか、また、我々の共同研究(Maddison and Wu, 2008)で使った古いアプローチによる結果と新しい結果との比較が可能かどうかについて、我々は電話で集中的に議論していた。3月、私は比較の結果と、彼が1954年の論文で試みた労働時間の推計についての質問とをEメールで彼に送付した。しかし不幸にしてその時すでに彼の健康状態は、彼に私との議論をつづけることも、私の質問に答えることも許さなかったのである。

アンガスは私の学術研究にきわめて重大な影響を与えた師であり、それと同時に、共同研究者であり友でもあった。私は、彼の家族とともに過ごしたフランスの彼の自宅や、コンファレンス会場、そしてそれ以外に我々が顔を合わせた世界中のすべての場所において、すばらしい時間を過ごしたことを懐かしく思い出す。確かに彼は、楽しみながら仕事をするということをごく自然にやってのける、類いまれな才能に恵まれていたように思う。こうしてアンガス・マディソンはこの世を去り、追憶の対象となった。しかし、彼の知的遺産は決して失われることなく、多くの人々が彼の研究精神を引き継いでいくだろう。

脚注

*[訳者注] 本稿の翻訳にあたっては、尾高煌之助一橋大学名誉教授、斎藤修一橋大学名誉教授、深尾京司一橋大学経済研究所教授、袁堂軍復旦大学経済学院准教授、Ralph Paprzycki一橋大学経済研究所特任准教授、木村貴子一橋大学経済研究所COE研究員、牧野達治一橋大学経済研究所COE研究員の助力を得た。記して謝意を表したい。

  1. 私が執筆した論説は、2010年9月刊行のThe Review of Income and Wealthに収録される予定である。その内容の一部は、特に明示することなく本文にも用いられている。
  2. [訳者注] 長期経済統計シリーズは、当初全13巻での刊行を計画していたが、後に1冊が付け加えられ全14巻となった。この顛末については、山澤逸平・山本有造(1979)『長期経済統計14 貿易と国際収支』東洋経済出版社のはしがきに詳しい。
  3. Angus Maddison, “Research Objectives and Results, 1952-2002”. この文章は、GGDCが運営するホームページで読むことができる。

参考文献

Maddison, Angus (1983), “A Comparison of Levels of GDP Per Capita in Developed and Developing Countries 1700-1980”, Journal of Economic History, Vol. 41, No. 1, March, pp. 27-41.

Maddison, Angus (1987), “Growth and Slowdown in Advanced Capitalist Economies: Techniques of Quantitative Assessment”, Journal of Economic Literature, Vol. XXV, June, pp. 649-698.

Maddison, Angus (1994), “Confessions of a Chiffrephile”, Banca Nazionale del Lavoro Quarterly Review, No. 189, June, pp. 123-165 (also available on his website maintained by the Groningen Growth and Development Centre).

Maddison, Angus (1998), Chinese Economic Performance in the Long Run, OECD, Paris; an electronic version is available online at: www.ggdc.net/Maddison.

Maddison, Angus and Harry X. Wu (2008), “Measuring China's Economic Performance”, World Economics, Vol. 9, No. 2, pp. 13-44.

本コラムの原文

翻訳:COE研究員、攝津斉彦

Global COE Hi-Stat Newsletter no. 4 (August 2010) に掲載