制度の多様性とその歴史的起源
―日米における雇用システムの比較経済史分析―
森口千晶(一橋大学経済研究所准教授)
はじめに
North(1991)によれば『制度』は社会の誘因構造を規定する。従って制度は長期的経済成長の重要な決定要因である。だが経験的にみても、優れた制度を構築することは難しく、だめな制度を改革することはさらに困難だ。今日、自由主義経済を標榜する先進国の中でもなお多様な制度が併存するのはなぜだろう。そもそも制度はどのように生成され発展変容するのか。理論的にも実証的にも、私たち経済学者はまだまだ制度変化のメカニズムを理解したとは言い難い。
制度の多様性の謎を解き制度変化の仕組みを究明するにあたって、私は歴史を対象とする経済学(=経済史)は現代を対象とする経済学に対して比較優位を持つと思う。なぜなら、歴史は多様な制度の事例に満ち満ちており、実証分析の材料や理論的アイディアの宝庫だからだ。歴史家は多種多様な社会・経済・政治的条件のもとに成立した諸制度を長期的に観察することができる上に、時によっては歴史的偶然による自然実験を見いだすこともある。本稿では、比較経済史を用いた制度分析の有用性を示すために、その応用例として日本とアメリカにおける雇用システムの歴史的起源を考察してみたい。
日米における戦後の労務管理制度
1970-80年代に鉄鋼、自動車、家電といった日本の製造業がアメリカで大きく市場シェアを伸ばしたとき、日本企業の高い労働生産性の秘密を探ろうとする研究が盛んに行なわれた。そこで注目を浴びたのが、アメリカ経営者にとっては「寝耳に水」ともいうべき日本企業のブルーカラー労働者に対する労務管理方法(human resource management)である。
単純化を恐れずにいえば、USスチール、ゼネラル・モーターズ、ゼネラル・エレクトリックといったアメリカの代表的企業にみられた雇用慣行は、(1)法的な第三者よって履行可能な明確で詳細な雇用契約、(2)ともすれば敵対的な相互不信に満ちた労使関係、(3)ブルーカラー労働者に対する企業内教育投資の欠如、(4)厳密に規定された職務や役職に応じて等級化された賃金体系、(5)先任権に基づく、限定的ながらも契約に明記された職務保障、という特色を持っていた。
ところがこれとは対照的に、新日鉄、トヨタ、日立といった日本企業における雇用慣行は、(1)評判(reputation)によって企業内部で履行される暗黙で曖昧な雇用契約、(2)労使協議制に基づく協調的な労使関係、(3)ブルーカラー労働者への積極的な教育訓練投資、(4)柔軟で流動的な職務配置と「年令プラス査定」に基づく賃金体系、(5)「終身雇用」という契約によらない暗黙の雇用保証、によって特徴づけられていた。
日米という2大経済大国において、なぜこのように対極的ともいえる労務管理制度が併存したのだろうか。このいわゆる「アメリカ的」雇用慣行と「日本的」雇用慣行には、どちらも経済的合理性があるのだろうか。そしてこのような制度は、いつどのように形成されたのだろうか。こうした疑問に答えるべく、私は一連の研究において日米における雇用制度の歴史的起源を探ってきた(Moriguchi 2000, 2003, 2005)。そこでまず提案したのは、比較経済史による実証分析を行うための理論的な枠組である。
制度の変化と持続を理解するための理論的枠組
ゲーム理論の応用により、経済学における組織や制度の研究は近年、飛躍的な進歩を遂げたといっても過言ではない。特にAoki(2001)やGreif(2005)が提唱する『比較制度分析』(Comparative Institutional Analysis)の核心にある着想は、制度の多様性を「複数均衡」として捉える点にある。本稿でもこれにならい、一国における『雇用システム』を経営者、労働者、政府の3者がプレーする戦略的ゲームの均衡として概念化する。すなわち雇用システムはこの3プレーヤーの相互に最適反応となる戦略の組合せとその戦略を裏付ける信念(belief)の集合体として定義される。
まず、企業のレベルでは、経営者と労働者が毎期々々繰り返し雇用ゲームをプレーする中で、生産技術、外部労働市場や政府の法規制を所与として、労務管理制度を形成する。労働者の技能や人的資本が契約不可能(=観察可能だが立証不可能)であるという仮定を置くことによって、上述の「日本的」雇用慣行が、実は繰り返しゲームにおける『暗黙契約均衡』(Implicit Contract Equilibrium)を形成していることが示される(Moriguchi 2003)。この均衡では、経営者が、労使相互の信頼関係を前提に、労働者に人的資本投資を促すために暗黙の雇用保障を約束する。また「アメリカ的」雇用慣行は、同一の繰り返しゲームにおいて『明示的契約均衡』(Explicit Contract Equilibrium)を形成していることも示される。この均衡では、経営者が、相互不信を前提に、契約不可能な人的資本に契約可能な代理変数(例えば役職や先任権)を導入することによって、労働者の人的資本の蓄積を図ろうとするのである。
さて、マクロのレベルでは、政府が自己の目的関数を最大化するべく労働法や社会福祉政策を選択する。政府の政策はもちろん民間プレーヤー(経営者と労働者)の利得に影響を与えるが、同時に、企業の労務管理制度は、経済成長率や有権者間の所得配分、教育や福祉といった公共財への需要を変えることで、政府の利得に影響を及ぼす。この民間プレーヤーと政府間の戦略的な相互依存性こそが、複数の均衡雇用システムを生み、制度の多様性を生みだすのである。
1980年代の日米の雇用システムを複数均衡だとみなすならば、2国における雇用システムの生成発展を理解することは、均衡選択の動学的過程を解明することに他ならない。ここで、歴史的に重要な役割を果たす2つの要素を導入しよう(Moriguchi 2000)。ひとつは、戦争、不況、占領といったような、繰り返しゲームのパラメータを外生的に変える「予期せぬショック」(unanticipated shock)の存在である。もうひとつは、各プレーヤーが特定の戦略をプレーする中で蓄積する物的資本、技能、評判、専門知識といった「制度的資本」(institutional capital)である。
経済の初期条件は、ゲームのパラメータおよびその時点での制度的資本によって表されるとしよう。これらの初期条件に基づいてゲームのある均衡が選択される。ところが、そこに予期せぬショックが発生すると、それはパラメータを変化させ、経営者、労働者および政府の戦略的対応を引き起こす。ただし、各プレーヤーは、そのショックを予期せずに蓄積されてきた制度的資本を所与として、最善の対応を導き出すため、過去が今日の決定に影響を与え、制度発展における経路依存性(path dependence)が生じる。最善対応の組合せにより均衡が選択されると、それに伴って新たに制度的資本が蓄積され、それが次の予期せぬショックの初期条件を形成する。単純ではあるが、これが制度発展の動学的過程である。
それでは、制度発展の方向はどのように決まるのか。鍵となるのは、予期せぬショックと制度的資本という二つの力の相対的な大きさである。制度的資本は時間とともに深化し、制度発展に持続性と連続性を与える。各プレーヤーが制度特殊的な投資を行ったり、技術やノウハウを蓄積することによって、現行の制度が強化され、発展の経路は一定の均衡に収斂していく。私はこれを制度発展の「自己増強プロセス」(self-reinforcing process)と呼ぶ。そこに制度変化の可能性をもたらすのが、予期できないショックである。もしショックの衝撃が制度的資本の力を上回れば、各プレーヤーの最善対応が変化し、経路は異なる均衡へ向かう。これが外生ショックによってもたらされる「分岐プロセス」(bifurcation process)である。たとえショックが一時的なものであっても、その後の制度的資本の蓄積を通じてその初期効果が増幅されるため、それは制度発展に持続的な影響を及ぼし得るのである。
日米の雇用制度の比較経済史分析
このような理論的枠組に則って、1900年代から1960年代までの日米における雇用システムの歴史的発展を分析すると、両国の一筋縄ではいかない発展経路が明らかになる。すなわち、20世紀初頭に両国の雇用制度は似たような初期条件から出発し、その後、第一次大戦の影響もあって共に『暗黙契約均衡』に向かって発展した。ところが、大恐慌を契機として1930年代に日本とアメリカの経路が分岐し、後者は『明示的契約均衡』へ向かい始める。第二次大戦期の制度増強のプロセスを経て、日本は戦後改革の危機を超えつつ、両国は異なる均衡に到達したのである。
20世紀初頭、日米の大規模な工場における雇用関係は、(1)短期の雇用契約、(2)競争的な労働市場、(3)体系的な人事管理の欠如、(4)労働組合の未発達、といった点で似通っていた。どちらの国でも、工場労働者はよりよい賃金や労働条件を求めて頻繁に職場を変え、使用者はそういう労働者に投資することなく、景気が悪くなればすぐに彼らを解雇した。人事は現場を取り仕切る工場長に一任され、労働者は工場長の権威的で恣意的な扱いに不満を持つ一方、工場長は監視を怠ると働かない労働者に悩まされることが多かった。日米両国において、離職率は高く雇用関係は短命で、労使間のコミットメントは相互に低かったといえよう。
こうした状況を出発点に、両国の有力企業における雇用慣行は1910年代から1920年代にかけてパラレルな発展を遂げる。なかでも第一次大戦というショックは、アメリカと日本に同様の社会、経済、および政治的状況を生み出した。軍需による工業の急拡大、労働力の不足、労働運動の高揚、そして福祉政策への国民的要求の高まりを受けて、両国のビジネスリーダーは安定した労働力の確保、労使の協調、労働生産性の向上の必要性を痛感するにいたった。進歩的な経営者は、賃金外手当(有給休暇、疾病保険、年金、退職手当、住居手当など)、企業内教育訓練、内部昇進制度や雇用保障、さらには従業員代表制(アメリカではカンパニー・ユニオン、日本では工場委員会ともよばれる)といった法定外のさまざまな福利厚生プログラムを導入した。一部の大企業によって進められたこのような新しい人事政策は「企業福利主義」(corporate welfarism)と呼ばれ、アメリカでは「ウェルフェア・キャピタリズム」、日本では「経営温情主義」としても知られている。その本質は、職場への忠誠心やコミットメント、企業特殊的な技能や熟練といった契約に書くことが困難な人的資本の蓄積を、ブルーカラー労働者にも奨励しようとするものであった。日米両国において、企業福利主義の主たる推進者はいずれも資本集約的な製造業のリーダーであり、アメリカではインターナショナル・ハーベスター、ゼネラル・エレクトリック、スタンダード・オイル・オブ・ニュージャージー、ゼネラル・モーターズ、ベスレヘム・スチール、日本では三菱造船、日立製作所、芝浦製作所、住友電線、新日本製鐵などが有名である。
企業福利主義を導入した日米の大企業は、従業員や一般国民からの信頼と評判を次第に獲得していった。1920年代の終わりでも、これらの企業はそれぞれの国で全工場労働者の20%を雇用していたに過ぎないと推定される。しかし少数派ではあったものの、成長が著しく政治的発言力もあるエリート企業の集団であった。1929年に期せずして大恐慌が各国の経済を襲うと、アメリカでも日本でも、主だった企業はまずワークシェアリングを実施し、工場労働者の雇用を保護するという、今までには見られなかった対応を示した。だがアメリカにおいて恐慌が年を追って深刻化すると、企業福利主義を提唱する経営者のほとんどが「暗黙の約束」を破る形で、福利厚生プログラムを打ち切り大規模な解雇を断行した。その結果、アメリカでは経営者の評判は地に落ち、企業特殊的な人的資本も失われることになる。これとは対照的に、日本では恐慌が短く早くその影響も比較的軽度だったため、主だった企業福利主義的な経営者は、一方的な解雇をせず、避け難い場合には工場委員会を通じて退職を募るなどして、雇用保障の約束を守った。
大恐慌によってもたらされた日米間の最初の分岐は、1930年代の労働法の内生的な発展によってさらに拡大する。恐慌への政治的対応の一環として日米の両政府は労働組合の法制化を画策した。アメリカでは、全国産業復興法により組合が合法化され、新しく結成された産業別労働組合が組合員数とその政治的影響力を急速に増大させたが、日本では反対に、アメリカに比べてよい評判を維持した有力経営者たちを中心とする反対運動によって、労働組合の法制化は阻止される。また、日本では企業の福利厚生プログラムを支援し補完するような社会保障制度が作られていったのに対し、アメリカのニューディール期に確立された労働法は企業福利主義の継続を困難にするものであった。特に、アメリカでは経営者の支持する従業員代表制が非合法とされ、主たる大工場は職業別や産業別組合によって次々と組織されていく。この敵対的な交渉過程の中で、労使は法的第三者による履行を前提とする労働協約を締結するのである。
大恐慌の企業福利主義への影響をより詳細に分析するために、企業レベルのデータを用いてアメリカの企業間の比較をしてみよう(Moriguchi 2005)。それによると、企業福利主義を標榜していた大企業の中でも、恐慌による売上の低落がひどかったところほど、より早くにより多くの従業員を解雇し、福利厚生プログラムを廃止したことがわかる。また、そうした企業ほど、従業員の外部組合に対する支持が高く、また労使交渉の結果、よりリーガリスティックな雇用契約が結ばれていることも確認されたのである。
第二次大戦のショックは、両国の制度の発展経路をさらに分岐させる役目を果たした。日米両政府は、戦時下の工業生産を最大化するため、労働市場に介入し厳しい労働統制を行う。ところが、政府の戦時政策はその時点での法や慣行といった制度的資本を踏まえて設計されたこと、そして経営者も労働者も政府の規制に対し戦略的に対応し選択的なコンプライアンスを行なったことから、戦時の労働規制は、それぞれの国において、既存の人事管理慣行の制度化と普及に大きく貢献した(Moriguchi 2000)。その結果、戦中期の日米製造業において、明示的契約と暗黙契約を基礎にした対照的な労務管理制度が浸透し始め、さらにそれに補完的な法制度が発達することで国レベルの雇用システムが形成されていくのである。
アメリカは大戦後の黄金期にさらに『明示的契約均衡』への道を邁進するが、日本にとっては、敗戦後の占領は大きなショックであり、発展経路の潜在的な分岐点となり得るものであった。特に占領期の労働法改革とドッジラインによる深刻な不況は、大恐慌下のアメリカに似たような社会経済的状況を生み出した。しかし、日本の経営者と労働者は最終的には、評判という内部の履行メカニズムに依存した暗黙の長期契約に基づく雇用関係を再構築した。中でも注目すべきは、労働組合法制定に応じ、日本の主要大企業では従業員が自発的に「企業別」組合を形成したこと、そして産業別組合が日本のブルーカラー労働者から多数の賛同を得ることがついになかったことであろう。戦後日本における制度の発展経路の連続性は、労使間の相互信頼関係や企業特殊的な熟練、そして職場規範など、戦前から戦中にかけて蓄積された制度的資本ぬきには説明できない。
結び
以上の比較実証分析から明らかになったのは、1980年代の日本とアメリカにおける2つの対照的な『雇用システム』は、決して必然的な帰結ではなく、むしろ歴史的な偶然性と経路依存性の所産だったということである。特に、複数均衡の下で労使がどの労務管理制度を選択するかというプロセスでは、予期せぬショックのタイミングと規模が非常に重要な影響を与えた、という事実を改めて強調したい。
いうまでもなく、日米の雇用慣行は1980年代以降も発展と変容を続けている。「日本的」雇用慣行に触発されて、多くのアメリカ大企業が品質サークルやチームワーク、OJTといった「革新的な」労務管理法を導入したことはまだ記憶に新しい。ただその成功の度合いは企業によって様々であり、今日もアメリカの経営者は、さらなる労働生産性向上の手段を求めていとまがない。一方で、1990年代の「失われた十年」で長期的な経済停滞というショックに見舞われた日本の大企業は、従来の人事慣行を中核労働者については維持しつつも、雇用形態の多様化や能力主義の導入といった形で新しい方向を模索している。本稿でみた制度発展における経路依存性を考慮すれば、今日に至った歴史的経緯を理解することで、私たちはこれからの日米の雇用システムの発展をよりよく理解することが出来るのである。
参考文献
Aoki, Masahiko (2001). Toward a Comparative Institutional Analysis. MIT Press.
Greif, Avner (2005). Institutions and the Path to the Modern Economy. Cambridge University Press.
Moriguchi, Chiaki (2000). “The Evolution of Employment Relations in the U.S. and Japanese Manufacturing Firms, 1900-1960: A Comparative Historical and Institutional Analysis,” NBER Working Paper No.7939.
Moriguchi, Chiaki (2003). “The Implicit Contracts, the Great Depression, and Institutional Change: A Comparative Study of U.S. and Japanese Manufacturing Firms, 1910-1940,” Journal of Economic History 63 (3): 125-65.
Moriguchi, Chiaki (2005). “Did American Welfare Capitalists Breach their Implicit Contracts during the Great Depression? Preliminary Findings from Company-level Data,” Industrial & Labor Relations Review 59 (1): 55-86.
North, Douglass (1991). “Institutions,” Journal of Economic Perspectives 5: 97-112.