Hi-Stat Vox No.21 (2011年11月10日)

Christopher Sims教授のノーベル賞受賞に際して

渡部敏明(一橋大学経済研究所教授)

Photo : Toshiaki Watanabe

Christopher Sims教授がThomas Sargent教授と共に2011年度ノーベル経済学賞を受賞した。Sims教授は私のイエール大学時代の指導教官だったので、すぐにお祝いのメールを送ったが、改めて心からおめでとうと言いたい。ノーベル賞受賞者に対して失礼かもしれないが、私はいつもChrisと呼ばせてもらっており、Sims教授と呼ぶのは違和感があるので、以下ではいつも通りChrisと呼ばせてもらうことにする。

Chrisはハーバード大学で経済学Ph.D.を取得した後、ミネソタ大学、イエール大学で教え、現在はプリンストン大学で教授をしている。ちなみに、学部はハーバードの数学科を2番の成績で卒業したそうである。運良く、私がイエールの大学院生だった時にミネソタから移って来られて、指導をしてもらった。

今回のノーベル賞はマクロ計量分析の研究に対して与えられたものだが、計量経済学者としてのChrisの特徴はベイジアンということである。ベイズ推定では、モデルのパラメータを確率変数であると考え、まずデータを観測する前の分布である事前分布を設定し、それをベイズの定理によってデータを観測した後の事後分布に更新した後、事後分布を使ってパラメータを推定する。以前、Chrisになぜベイジアンになったのか聞いたところ、政府や中央銀行が政策を変えるとモデルのパラメータの値が変わるという「ルーカス批判」以来、モデルのパラメータは定数ではなく確率変数として捉えるべきだと思ったそうである。ベイズ推定は、古くは事後分布の導出が難しいためそれほど用いられなかったが、以下で述べるマルコフ連鎖モンテカルロ法(Markov chain Monte Carlo; MCMC)と呼ばれるシミュレーションの方法の開発により、現在ではかなり普及しつつある。

Chrisに指導教官になってもらった当時、私はマクロではなく、ファイナンスの確率的ボラティリティ変動(stochastic volatility; SV)モデルについて研究していた。このモデルは尤度を解析的に求めることが難しいので、Chrisに相談に行ったところ、MCMCという手法を使うように言われ、これきっかけとなり、その後、MCMCを使うようになった。MCMCは1回前にサンプリングされた値を用いて次の値をサンプリングする方法の総称である。この方法を使うと、複雑なモデルでもパラメータを事後分布からサンプリングできるので、ベイズ推定を行える。MCMCは物理で使われていたのが、その当時ようやく計量経済学に応用され始めたばかりだったので、文献も少なく、ほとんどChrisにマンツーマンで教えてもらった。

この方法はパラメータを推定するためにかなりの数の乱数を発生させなければならないので、かなりの計算時間を要する。若い人たちは知らないかもしれないが、当時はコンピュータのCPUがインテルのi386の時代で、計算が遅くて困っていたところ、Chrisが自分の隣の研究室を私に割り当ててくれて、そこに当時最も早かったi486の33MHzのパソコンを設置してくれた。それでも、SVモデルの推定には1週間近くかかったが、おかげで何とか博士論文を完成させ、Ph.D.を取得することができた。Ph.D.取得後、MCMCは時間がかかって大変なのでもうやめようと思っていたが、その後、コンピュータが格段に速くなったので(昔1週間近くかかったSVモデルの推定も今では15分程度で終わる)、今でもMCMCを使っている。もしChrisに出会っていなかったら、今、何を研究していたかわからない。今の自分があるのは、Chrisのおかげである。

Chrisはイエールで大学院1年生必修のマクロ経済学の授業を担当しており、私はそのTAをやらせてもらった。正直言って、Chrisの授業は難解で、1学期間、ずっと横断性条件 (transversality condition) の話ばかりしていたこともあった。ただ、TA sessionと呼ばれる補講では、Chrisの授業の内容をわかりやすく説明するだけでよかったので、TAとしては楽だった。

Chrisの業績は多岐に渡っているが、最も重要なのは多変量自己回帰(vector autoregressive; VAR)モデルに関する研究であろう。このモデルを用いると、例えば中央銀行が金利を下げた時にマクロ変数に時間を通じてどのような影響を与えるかといった政策効果のシミュレーションを行えるので、単に研究者の間だけでなく政策当局にとっても重要なモデルである。ただし、VARモデルを推定するためには識別のための制約が必要で、どのような識別制約を置くべきかについてもChrisは多くの論文を書いている。また、VARモデルを用いた変数間の因果性の検定についても重要な研究を行っている。

ChrisのVARモデルの論文の中でも重要なのは、1980年にEconometricaに掲載された論文“Macroeconomics and Reality”であろう。そこで、その論文が掲載されてから30周年を記念して、一橋大学グローバルCOEプログラム「社会科学の高度統計・実証分析拠点構築」と日本銀行金融研究所との共催で2010年1月23日-24日に一橋大学マーキュリータワーにてJournal of Economic Dynamics and Control Conference on Frontiers in Structural Macroeconomic Modeling: Thirty Years after “Macroeconomics and Reality” and Five Years after “Nominal Rigidities and the Dynamic Effects of a Shock to Monetary Policy”と題する国際コンファレンスを開催した。Chrisには基調講演を行ってもらい、僭越ながら、私がその司会を務めた。その時の模様は、Global COE Hi-Stat Newsletter [PDF: 607KB]にまとめているので、ご覧頂きたい。ノーベル賞受賞者を招聘するのは難しいので、受賞前に招聘できてよかったと思う。また、その時に相撲に連れて行って喜んでもらったことも良い思い出である。コンファレンスの参加者の中にはChrisと一緒に写真を撮っておくべきだったと後悔している人が少なくない。

その後、2011年5月25日-27日にソウル国立大学とKorean Development Instituteが、Recent Developments in Dynamic Analysis in Economics-30 Years after Macroeconomics and Reality と題するコンファレンスを開催し、ミネソタ、イエール、プリンストンでのChrisの学生が参集した。もう一人のノーベル経済学賞受賞者であるSargent教授も来られていた。私も招待され、Chrisの専門であるVARモデルの論文を報告したところ、Chrisから鋭い質問を受け、青くなると共に学生時代に戻った気がした。現在、その論文はChrisのコメントを基に改訂中である。

私はこれまで主に資産価格のボラティリティを中心とした計量ファイナンスの研究を行ってきたが、Chrisの研究などにより、近年、マクロ計量モデルの推定にもMCMCが用いられるようになってきたので、遅まきながらマクロ計量分析も始めた。Chrisには到底及ばないものの、Chrisのこれまで行ってきた研究を少しでも発展させられるよう頑張りたい。